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2009-06-04 (Thu) | 日常生活・ひとりごと
ヤフーのトップに、白いツバメの雛の紹介記事を見かけました。
見出しが幸運の知らせとかになってますけど、
これってアルビノという個体ではないでしょうか。

見た目には珍しいですし、とても綺麗ですから、我々に幸福を運んでくれるのではないかなどと
盛り上げるあたり、まぁさすがマスコミですなw
アルビノな体の個体自身が劣勢個体という大きな生きるためのハンデを背負っているのに、
周りに幸せを振りまいてる余裕などないはずです。それどころか、
この白いツバメは普通個体に比べて、夏の紫外線に弱く、巣立つことができたとしても、
日本の夏の日差しの中で、あまり長くは生きられないかもしれません。

例えばインコでもアルビノ個体の方が白くて目が赤くて綺麗に見えるので人気があるようですが、
アルビノの個体自身は決して野生で生きていくためには幸運な体ではないようです。
普通の個体よりアルビノ個体の方が、生き残るのは難しいと考えられます。
私もかつてオカメインコやセキセイインコのアルビノを飼っていたことがありますが、
普通のものより短命で病気や怪我にも弱いと感じた覚えがあります。
ヒトにもアルビノは存在するようです。
漫画では、手塚治虫さんの「ブラック・ジャック」という作品の中で出てくる、
白いライオンの子どもがアルビノ体質で病弱なため、
ジャックが色素沈着の手術をして、普通の色のライオンにしてあげるのですが、
飼育している動物園側は、色の白さが珍しくて人気がある子だったのに、
普通の色にしてしまっては困ると激怒するわけです。
人間の見た目ではアルビノの方が綺麗で価値的にも重宝するのでしょうけれど、
その個体自身にとっては、アルビノという体は遺伝子的に劣勢であり、
普通体に比べればかなり不利ということになります、
個体自身のためか、周りのためか・・・考えさせられる話でした。
ちなみにその漫画で登場するホワイトライオンの子どもは、
ジャングル大帝のレオそっくりです。
作者が敢えて自分の別作品のキャラそっくりなキャラを友情出演みたいに登場させる
ことがあるので、ジャングル大帝のホワイトライオンも、アルビノ体質、ということかもしれません。

ちなみにWiki等でも、アルビノは白い体毛や皮膚ゆえ、
紫外線に弱いという特徴があります。これが普通の個体と比べてハンデになるところなのでしょう。
自然界では、おそらくアルビノ個体が生き残るのは難しいと考えられます。

私達人間の目から見れば、ハンデのある個体は哀れに見えるかもしれませんが、
弱い個体は生き残れない、これが自然界でのルールです。
だからといって野生の弱い固体を人間が保護して人間の暮らしの中で飼育していくことは、
その個体を自然界から永遠に引き離さなければいけないことになります。

この個体自身が可哀想とか、助けてあげたい、それは人間という生き物の感情にすぎません。
可哀想であろうがなんだろうが、自然の摂理に従ってそっとしてやるしかないと思います。
可哀想と思うぐらいなら、いっそ忘れてしまった方がいいのかもしれません。

アルビノツバメは人間の目を楽しませるための見世物ではありません。
人間の近くに暮らしていても、それは野生の生き物です。
自分自身の姿が他の個体とは違うことは本人も知らないし、
自分自身も周りの個体と同じように懸命に生きようとしています。

鳥は人間以上に臆病で敏感で病気や怪我や個体のハンデに弱い生き物と思ったほうがいいです。
あまり人間の感情を入れ込まないほうが、鳥にとっても、人間にとっても、気楽なことかと思います。
2009-06-02 (Tue) | ビオトープ管理士・こども環境管理士
6月1日より、(財)日本生態系協会さんの公式HPにて、
ビオトープ管理士資格試験の受験申込受付が開始されました。
ビオトープ管理士に関する手引書、参考書籍、セミナー、一部免除認定校、キャンパス受験など、
詳しい資料がそれぞれダウンロード可能となっています。

まだお知らせにはないようですが、私個人は去年初めて実施された、
環境法のセミナーが今年ももし実施されるのであれば是非また復習の意味で参加したいです。
環境法の科目は、私も去年、とても苦心した科目です。独学ではどうにも身に付かず、
どう勉強したらいいものか悩んでいたところで、この環境法セミナーの知らせを知り、
早速申し込んで、これまではビオトープ管理士セミナーでしか入手できない
非売品の環境法の資料も入手できるチャンスに恵まれ、セミナーでも、
法律そのもののしくみから色々と分かりやすく知ることができたので、
とてもいい経験になりました。環境法セミナーだけなら、ビオトープ管理士に比べて、
受講料が安く済みますし、環境法だけをじっくり学べる時間と機会でもあるので、
私個人は参加してよかったと思っています。

最近では環境への意識、関心の高まりから、大学でも、環境系の学部や学科も増えているようです。
私の頃は環境保全に関する学科や学部は殆どありませんでしたから、
そういった勉強のできる大学や専門学校に通える今の学生さん方が羨ましく思います。
まぁ、私も自分の望んでいた道とは違っていましたが、短大で学んだ日々があってこその、
今の自分だと思ってるので、周りの知名度はどうあれ、私はどんな名門校よりも、
自分を育ててくれた母校、自分の学び舎はずっと誇りに思っています。
2009-05-31 (Sun) | 日常生活・ひとりごと
生き物が生きられるための「環境」と、その環境の中で生きる「生き物」との関係は、
鎖のように絡み合いながら、お互いに変化を続けていくもの。
環境が変化すれば、生き物はその環境に適応するための知恵や遺伝子を身につけ、
その環境に適応できると、繁栄するために数を増やし、進化していく。
生き物の変化・・つまり、進化や数の増減などによって、環境もまたその影響を受け、
徐々に変化をし、あるいは、自然災害のような大きな環境の撹乱をも引き起こしながら、
また少し環境は変化する。すると、生物もその影響を受けて、再びその環境に適応する為に
、あるいは、新しい環境に適応できる個体だけが生き残り、次の世代に遺伝子を残すことで、
環境に適応できる生き物達がまた繁栄する。生命ある限り、また、その生命が生きられる
非生物的な環境条件であるかぎり、環境と生物との関係は永遠に続いていくもの。

より多くの種類の地域在来の生き物が暮らせてこそ、自然と呼ぶに相応しい環境である。
人間に自然は作れるのか?自然を作ったのはもともと人間じゃない。
人類が誕生する前の、地球の中での様々な環境と生物との係わり合いによって
とてつもなく長い年月をかけて築き上げられて存在するもの。
人類の歴史を何倍積んでも届かないほど、地球の歴史のほうが圧倒的に長い。
その圧倒的な長い年月によって出来た自然環境を、人間ごときが作れるはずが無い。
どんな技術をもってしたって、本物の自然を人間だけの力で作り上げることなど、
絶対に不可能だろう。本物の自然は、人間が作ったのではないから。
本物の自然は、非生物的環境とその中で暮らす多様な生物達との係わり合いを
何億年も続けて築かれたもの。

自然を作ることは出来なくても、
そこを豊かな自然環境に戻すために必要な適度な生物的なかかわりの範囲であるならば、
つまり人間もそこの自然を構成する生き物の一員として手入れをするなら許されるだろう。
ただし、人間だけの視点や都合でなければ、だと思う。
正しく自然の原理を理解できていれば、だと思う。

私たち人間の便利で楽な生活な暮らしの為に、
これまでどれほど多くの種類や数の他の生き物達が、
変わり果てた環境に苦しみ、そのために犠牲になってきたのだろうか。

これまで人間を含め、様々な生き物達がこの地球で進化を続けながら存続することができたのは、
生き物が棲めるような非生物的な環境条件の中で
生物多様性に富んだ生物達の営みによって機能する各地域における生態系の存在あってこそ。

どんなにそこが本来の自然からかけ離れた、人類だけの楽園的な人工的な環境空間となろうとも、
そこに本来の自然のもっていた機能がなければ、その地域の生き物はおろか、
その地域の人間ですら心身共に健全な生活を送るための環境として、
必ずしも良い環境といえるのだろうか。

私たちの求める、あるいはもう得ている栄華や、
科学技術の力。それが今後、自然との共存、
つまり野生の生き物達との共存を可能にするのだろうか。
あるいは、私たち人間自身を本当に豊かにしてくれるものなのだろうか。

本当の豊かさ、本当の幸福。それって何にあるのだろうか。

エコというブームの間だけでなく、これから何年も、
いつの時代でも向き合わなければならないテーマとなることは間違いないといえる。
向き合うことを面倒に感じ、またブームのようにすぐ飽きて関心を冷ましてしまえば、
環境は更に悪化していく以外にないだろう、一部の人に任せればいい問題ではない。

エコはブームではなく、多くの人々が気づき始めている、人類の存続に関わる、
避けることの出来ない、権力や地位、財力、貧富に関係なく、
誰にでも常に付いてまわる「危機問題」に対する「対策」と「反省」と「課題」といえる。

この課題を真剣に受け止め、向き合わない限り、どんなに求めても満たされず、
どんなに本当の幸福を求めようとしても得ることは出来ないと思う。
目の前の欲求をいくら満たし続けても、後から再び虚しさはこみ上げ、
生命の真理を考えずにはいられなくなるはず。
モノで満たしても満たしても、心までは満たされない。満たされてもほんの一時に過ぎない。
心が本当に求めているものと向き合うこと。
脳はいくらでも働いて、賢くなれば嘘だって巧みにつけるようになるけれど、
その脳を守る体と心はいつでも、嘘を付けない。

どんなに時代が変わっても、自然を否定することは出来ない。
人間も自然の中で進化した生き物の一種にすぎない。
つまり、かつては人間も他の生き物達と同じく、自然生態系の構成員だった。
ところが、いつしか、人工的な環境を作り出し、人間だけに都合のいい、
他の生き物達の多くが適応できない、あるいは適応できたとしても人間に排除されてしまうような、
環境ばかりが出来てきてしまった。
生き残れた種がいたとしても、その改変された環境には、健全な生態系機能は無い。
多様な生き物の営みがあってこその、生態系であり、生態系あっての、「自然」である。
自然を否定することは、人間以外の多様な生き物達の存在を否定することになる。。
あるいは、自然は人間が利用するために存在する、という、自然と人間とを切り離した存在に
捉えることになる。自然と人間とが切り離されれば、
当然、自然の知識など正しく理解できない人間が増える。
その人間達によって更に自然を間違って利用したり、否定したりする。

私達の先祖は、自然の恵みに敬い、その脅威に恐れながらも、
畏敬の念を持っていたからこそ、存続できた。

自然を否定したり、人間だけの理想的な楽園的な環境に作り変えたり、
そこで暮らし慣れている人間に、自然に対する畏敬の念などあるのだろうか。

自然との共存を求めることは、人間の都合の良し悪しに関係なく、
人間以外の様々な生き物と共に同じ空間で暮らすことを認めなければならない。
今の人間達にそれができるだろうか?
害虫と呼ばれる虫でも、雑草と呼ばれる草でも、その地域在来の生き物であるなら、
その生き物をむやみに排除してはいけないことになる。

自然には、人間にとって危険な生き物、見た目的に嫌われがちな生き物も存在する。
人間にとって不都合な生き物を排除した人間にとって安全な自然など、自然とは呼ばない。
人間のエゴに過ぎない。
2009-05-18 (Mon) | 日常生活・ひとりごと
前回はちょっと記事が熱くなり過ぎてしまってすみません;
結局私自身も今の暮らしに頼っている部分がある以上、
大規模な環境破壊によって成り立つ社会を支持してしまっていることに
変わりないんじゃないかって、そういうことを書きたかったのですが、
何だか屁理屈っぽくなってしまいました。もう少し感情を抑えて、まとまりのある、
大人な書き方が出来るようになりたいものです。

ともかく、自分の身近な環境を見つめなおしながら、
今の私の暮らしのために犠牲となったたくさんの生き物達のために、
せめてもの償いをしたいです。とはいえ余りに大きすぎて償いきれないほどだと思いますが、
だからといって諦めて何もしないでもいられない、のは確かです。
たとえ無意味なぐらい小さなことでも、長く続けていけば、たくさんの小さなことが積み重なって、
何かしらの結果は出せるはず、です、途中でやめることなく、
根気よくずっと続けていれば、の話ですけれどね。

小さなことでもいい、ずっと続けていくこと・・・持続性のある行動が、
持続可能な社会作りの実現の第一歩になるはずです。時間はかかるかもしれませんが。
どんなに時間がかかっても、続けていくこと、根気よく。

そういう意味でも、「継続は力なり」という言葉が好きです。
2009-05-18 (Mon) | 日常生活・ひとりごと
先ほどたまたま見ていたTVのチャンネルで、海底の土砂採取による環境の変化について見てました。
海の砂ぐらいいくらでもあるんだからどんなに大量に採ったっていいじゃないか、なんて感覚かもしれませんが、
大量採取を長期にわたって続けていれば、いつかは撮り尽くされます。
海の砂とて、無限の資源じゃないんですよね。
ましって、海底の砂だって、それを必要とする生き物達にとっては大事なビオトープと言えるわけです。
一見、海底の砂だけを採取してるだけのように見えますが、
その砂の中でその地域の海の生態系を作り出していた多様な生き物達の命が、
一瞬にして大量に奪われてきたはずです。
砂が無くなり、そこに暮らしていた生き物達がいなくなり、
そんな海底は、砂の代わりにホコリが大量にたまって、砂の生き物はおろか、
そんな水が綺麗なはずもなく、魚すらいるはずもありません。
つまり、人間にとっても必要な魚が取れなくなる。
大量の生物達を犠牲にして大量に手に入れた資源で今の便利で豊かな文明が成り立っているのであれば、
そんな文明がいつまでも長続きするはずもなく、自分達が破壊した環境の中で、
自分達の文明も、いずれ壊れていくことは難しく考えずとも予想できるはずです。
自分達の生存基盤を壊しながら、今の状態を作り上げてるんですから。
そのツケは自分達の後の世代にまわしておけばいい、自分達は自分達の人生を、
楽しんで終わればいい、そういう考え方でいるんでしょうね。
だから、自然破壊と知っていても、別に今すぐ自分達の暮らしに影響が出ないから、
その影響が出る頃は自分達が優雅な一生を終えた後のことだから構わない、

・・まぁ、お偉い様がたのお考えならそんな所じゃないでしょうか。
もしそういう考えの人が出世したり裕福な暮らしができるような世の中であるなら、
私は偉くもなりたくないし、裕福な暮らしもしたくないです。
貧しくても、正しい心を歪めたくはありません。

そして、こういった環境や多様な生き物達を犠牲にした高度な経済社会を、
自分達の暮らしの為に、自分達も支えてしまってることが、何とも複雑ですね。
当人達だけの問題であればいいのですが、自分達もまた、今の時代を生きるためには、
自分達の社会を支えなければならない、つまり、環境破壊によって得られたこの人間社会を、
支えないでは生きていけない、という状況に置かれているんですよね。
そんな社会に反抗しても、結局自分がその社会で暮らしにくくなってしまうだけです。
悲しいことです。
私もどんなに自然の大切さ、生きるための基盤を破壊しながら成り立つ人間社会の脆さと
愚かさを感じていながらも、実際は、この社会の中で生きている以上、
その社会を支えていることに変わりはありません。
自分は直接破壊行動にかかわっていなくとも、その行動による恵みを受け、その行動によって
築かれた文明社会の中の便利さ豊かさに少しでもあやかって生活している以上、
破壊行動によって出来た文明を支えている時点で自分も同罪、
無関係でも無責任でもないんですよね。
自然をこれ以上破壊するのは良くない、と思いつつも実際は自然破壊を支持してしまっていることと、
余り変わりないんですよ、考えはどうあれ、行動では支持してるのと同じことです。
ただ、どんなにそれを訴えたって、今の便利で裕福な生活を手放したくないでしょうから、
その考えは理解できる、でも今の生活を手放すのもイヤだ、
そんな意見しか得られないでしょう。
破壊された自然を再生する為に、道路のアスファルトを剥がしでもっと土を露出させましょう、
なんて呼びかけても、それが自然の再生に繋がるとしたって、
多くの人は道路がないと困る、といって、賛成なんかしないでしょう。

環境に対する理解は出来ても、そのための行動には移したくない、今の暮らしを失うのもいやだから。

私の予想では、こういう考えが一般的のように思っています。

しかし、手を出したのは人間、壊したのも人間、築いたのも人間、であるなら、
問題を解決するのも人間以外にはありません。
人間が作り出した問題であるなら、人間が解決するしかないでしょう。
しかし、悪賢い人間ならきっと、問題なんて次世代任せでしょうね。
その時が来たらその時考えればいい、なんでしょうね。
自分達は楽しんでおいて、都合の悪い部分は次の世代に押し付ける、みたいな。
でも次世代ももし、同じように自分達がしたことじゃない、前世がやったことだから、といって、
問題と向き合おうとしないのでは、人類の未来なんて輝かしいものには思えません。
人間はそうやって、自分達の都合の良いものばかりを求めるような、
都合の悪いものは周りに押し付けるような、ずる賢い生き物になっていってしまうのでしょうか。
そんなことを繰り返しているうちに、環境問題はもはや手遅れなほどに膨れ上がって、
人類の築き上げた歴史も地球の生命の歴史もすべて一緒に弾け飛んでしまいそうですね。

何か大切なことを忘れてしまっているような気がします。
忘れ物をしながら生きているような気がします。
その忘れ物を取り戻さない限り、ずっと心は満たされないままでしょう。
忘れ物をしたまま前に歩いていても、気になって何度も振り返ってしまうでしょう。
気にしないように歩いたって、結局忘れ物を取り戻さない限り、心は満たされないでしょう。
結局、忘れ物を取りに、その場所まで、自分で戻って拾わないと、満たされないのです。

物質的な豊かさは、そこに暮らす人々の心も豊かにしてくれているでしょうか。
昔よりどんどん便利になりました。モノもどんどん増えました。
さて、さぞかしすばらしい景気になりましたでしょうか? 
文明社会に生きる人間としての幸福を日々実感してますか? 
心は活き活き輝いてますか? 

物質的にどんどん豊かになっている反面、
心の貧しい人間が増えていると聞いたことがあります。
もし物質的に豊かであることが、人間としての幸福であるなら、
心の豊かな人間が大半を占めてもおかしくないはずなのに、変ですね。
何故、こんなにすばらしい物質社会の中で、心に貧しさなんて感じるんでしょうね。
便利さと豊かさのエネルギーのおかげで、
人の生きる力も活き活き輝いて、頑健な精神になれるはずだと思うんですけどね。