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2010-09-28 (Tue) | 日常生活・ひとりごと
「初めは遠慮深げに、やがて我が物顔に。」

動物でも、植物でも、微生物でも、人類でもそうやって成長しながら生きていくもの・・
つまり全ての生き物・生命体に共通する真理みたいなもの。
それが個体レベルでも、個体群レベルでも、群集レベルにおいてでも。

人間社会においても、個人レベル、集団レベル、企業レベル、地域レベル、国レベル、文明レベルでも、
人間という生命活動が源となっているのであれば、やはり、
それはあてはまる。

しかし、我が物顔=ピークを極めた途端、それは長続きせず、徐々に衰退に入る。
我が物顔である時が全てを我が手に入れたような、頂点を極めたような、
一番輝けるときであろうに、それは決して長くは続かない。

もし謙虚という言葉が我が物顔=ピークを極める一歩手前で踏みとどまりながら、
少しでも衰退を遠ざける持続性ある生き方ができるという意味でもあるならば、
何故謙虚な生き方に美徳が見出せるのかが分かるような気がする。

我が物顔になった途端、その先には衰退への道があるのみ。
だから、頂点を極める勢いを自制し、我が物顔になる一歩手前で踏みとどまり、
衰退を少しでも先延ばししようとする。
それもまた、種の繁栄や自身が生きるための知恵、なのかもしれないと思う。

つまりは、完璧な完成を極めるより、限りなく完成に近い未完成のままの方が、
持続性はある、のかもしれない。

生命が持続的に繁栄を続けていけるためには、我が物顔の一歩手前を生きる知恵を
身に付けることも大事なのかもしれない。
我が物顔を極めた後で、衰退期に入ったところを周りに叩き潰されるかもしれない。

我が物顔で生きてると、それが間違いだと言うわけではないけれど、
余り周りからは好まれないのではないか。

我が物顔で生きるか、その一歩手前で踏みとどまって謙虚に生きるか。
人類の歴史、人間活動が源となる文明の栄枯盛衰の歴史の教訓から、
それが学べるのではないだろうか。
今度こそは過去のような失敗はしないだろう、と思って過去の事実を今に活かさないでいても、
そこに何か真理があるとするならば、やはり過去と同じような流れを繰り返してしまうかもしれない。

それが良いこととか、悪いこととかではなく、

「初めは遠慮深げに、やがて我が物顔に。」

これをどう自分は解釈して、自分はどう生きるべきか、
自分が生きていくための知恵を身に付けたい。
そのためには、自分自身を誰よりも自分が理解できてなければならない。
自分に正直にならなければ、本当の自分を理解できない。

正しい生き方の知恵を見出せたなら、我が物顔にならずとも、
持続性ある生き方の中で、きっと本当の幸せや喜びを実感できるのかもしれない。

我が物顔を極めた途端、それは長続きせず、衰退の道に入るのみ。
それが正しいとか間違いとか良いとか悪いとかではなくとも。

今の私は、そう思います。
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2010-08-22 (Sun) | その他
以下、拍手コメントへのお返事となります。
追記で折りたたんであります。
すっかり不定期更新ですがコメントありがとうございました。


>> ReadMore
2010-08-22 (Sun) | 日常生活・ひとりごと
環境に意識が高まる中、農業への関心も老若男女問わず注目が集まっているようです。
自然環境に触れ合いながら、農作業という苦労や手間暇を通して、
自分で作物を育て、収穫することの喜びは、
快適で便利な人工的空間での暮らしでは味わえない体験でしょう。

都会という環境は、その地域の本来の気候や土地の条件に関係なく、
一年中いつでも快適に人間が暮らせるように造られています。
暑いときも寒いときも、天候が良いときも悪いときも、人工的な施設によって、
人がいつでもベストなコンディションで快適に過ごせるように調整されます。
つまり、自然環境や自然のルール・条件に関係なく快適に安全に過ごせる場所、
ともいえるでしょう。

一方、農業を営むような農村地域では、その土地の自然条件に従って生活をしたり、農業を営んだりします。
自然環境はいつでも人間の都合よい条件であるとは限りません。
時には災害も起きるし、天候が悪くても、その自然現象に逆らってむやみやたらに環境改変はできません。
環境をいじれば、その土地の自然環境が壊れ、余計に今までに無いような不都合が起きることさえ
ありえるからです。
その自然現象に従って、環境を弄る前に各自、あるいは地域一体となって協力しあうか、
不都合な現象が過ぎるまでじっと待つぐらいしかできないでしょう。

まぁ一概にこうである、という言い方が出来るほど自分も大したものじゃありませんが、
農業への関心をお持ちで、今後農業に本当に携わりたい、と考えているならばまず、
都会環境がいかにその地域の本来の自然環境を無視した人間だけに好都合な改変的空間であるか、
また、そこに暮らす人々がいかに本来の自然環境の中での生活に気づかないうちに不慣れになっているか、
つまり、地象条件的に好都合な日も不都合な日もそれなりに自分で、あるいは周りと協力して
知恵を絞って乗り越える力が弱まっているか、ということについてなど、
これまでの自分の生活のあり方なども振り返りながら、個人でよく理解しておくべきではないかと思います。

どんなことにおいても、理想と現実というのは、必ず違いを実感するはずです。
こんなはずじゃなかった、というほどかけ離れた思いをするのは、理想ばかりに捉われて、
現実を認識する目がまだまだ甘かった、足りなかった、ということだと思います。
理想や夢を現実にする前に、まず、理想を置いといて現実と向き合い、現状を知ることから
始めていく必要があると思います。

農業においても、イメージや推測で何となく、豊かな自然に囲まれてのんびり暮らせる、
食べ物も自分で作って食べられる、天気の悪い日はムリに作業しなくていいし、
自分の時間をゆっくり過ごせる=健康にもいいし、ゆとりある生活を送れる→農業への憧れ、
と理想や夢に捉われてから関心を向ける人も少なく無いでしょう。
しかし実際には、都会という空間での生活に適応してきた人間の身体で、
いきなり自然環境という空間の中で農作業をしながら生活をする、となると、
自身の身体がその地域の自然環境や生活に適応するまでには時間がかかるでしょう。
都会生活で慣れきっていた便利さ快適さが、そこには無いのですから。
それまでに無かった生活や作業を新しく始める、ということは、
これまでにしていた生活や作業ができなくなる、ということでもあります。
新しい生活をするには、これまでの慣れきった生活ではなくなるのですから、
新しい生活に慣れることから始めなければなりません。
そのためには、いきなり新しい暮らしのために出向くのではなく、
まず、これから自分が始めようとしていることに対して、理想だけでなく、現実を知る為に、
自分でちゃんと正しい認識や理解を身に付けておかなければならないでしょう。
いくら人間にも環境にも優しい暮らしができるからといって、これまで全く違った空間に
適応して生きてきた人が、いきなり自然環境の中での暮らしに適応できるか、といえば、
そうとも限らないでしょう。どんな環境でも、まずはその環境やそこでの暮らしに
身体を慣れさせていかなければならないのです。そのためには、
その環境を現実的によく知らなければならないのです。

農業、といっても、農業が必ずしも環境に優しいライフスタイルであるかどうかも、
その農法によってまちまちです。
実際、これまでに農業による環境汚染や環境破壊などの問題が起きてきたのも事実です。
農業がやりたい、といっても、様々な農法があり、環境に優しいものから、
環境条件を無視したやり方まであるようです。

自分なりに大きく分ければ、地域の自然環境に従って農業を行う伝統的な農法による農業と、
重機、設備、化学肥料、農薬など、生産性やら効率性を重視して、
人間が自然条件に関係なく都合よく快適に便利に農業を出来るようにというような、
近代的な農法による農業があると考えます。
多くの人は豊かな自然環境に心身の癒しを求め、前者のような農業を憧れるでしょうが、
段々手間暇やら自然環境に従って暮らすことを面倒がってくれば、
後者のような農業の法がもっと楽に思えてくるかもしれません。
しかし、人間の利便性や都合を安易に取り入れれば、その地域の環境に負荷をかけることにつながりかねず、
農業なら何でも環境にも人間にも優しい、とはいえなくなってくるのです。
人間にもいつでも都合よく、また自然にも全く悪影響を与えない農業があればそれがベストかもしれませんが、
人間にいつでも都合よく・・・という時点で、エゴになってしまうと思うのです。
人間の過剰なエゴがいかに周囲の環境を弄ってきたかを考えれば、
都会だけに限らず、ありとあらゆる環境にまで人のエゴを通そうとするのはどうでしょうか。
その地域の環境に従えない生き物は生きられない、それが地域の自然のルールです。
人の力をもって、そのルールを変えてしまったり逆らってそこに暮らそうとするならば、
なんとも愚かなる生命体であろうと・・・少なくともその地域に暮らす生き物達に心があるならば、
そう思うでしょう。

我々は人間ですから、普段は人間の視点で全ての物事を見ているでしょう。
しかし、自然環境と共存した暮らしを憧れるならば、
人間だけの視点で環境を見つめるには環境の理解としては足りないのです。
周りにどんな生き物が暮らしているのか、またその生き物達がどんな暮らしをしているのか、
そこにはどんな地形的・地象的条件があるのか、など、様々な生き物の視点で環境を見つめることも、
自分の力で安全に暮らすためには必要なはずです。
人間の都合による行いが、周りの生き物にとって不都合になると、
それまで安定を保ってきた周りの環境が、壊れるおそれがあります。それは目に見えて分かるものでもないので、
目に見える危険だけが全てという見方だと、目に見えない、
すぐには実感しにくいけれどもとても恐ろしい危険ともいえます。
目に見えて初めて危険と認識したときには手遅れ、ともいえるのが目に見えない危険です。

最初は遠慮深げに、やがて我が物顔に・・・・。

そうやって人間も他の生命も進歩しながら今日まで生きてきてるわけですが、
いくら我が物顔でも度を過ぎてしまえば、衰退の道を辿ってしまいます。
だからこそ、自然のルールには最低限、不都合であっても従わなければならないと思います。

自然環境とは、多種多様な生命体によって長い年月をかけて築かれたもの、だからです。

人間は、人類の歴史以上に長い年月をかけられて築かれた環境を一瞬にして変えたり壊したり出来る力を持っています。
だからこそ、我が物顔やエゴな思いを敢えて抑え、謙虚に生きる精神が大事なのだと思います。
それが環境を守ることでもあると思います。

相変わらずまとまりないですが、とりあえず今回書いておきたかったことは、
農業にも様々な農法がある、ということです。環境に優しい農業もあれば、
イメージとは逆に、環境を汚染・破壊してしまうような農法の農業もある、ということです。

農業をやりたい、というのではなく、どんな農業をやりたいか、あるいは自分にはどんな農業が向いているのか、
農業を始める為にはどんな知識や心の準備がいるだろうか、よく調べて考えておいた方がいい、ということです。
とりあえず現場に行ってみて実際に体験してみれば色々と分かる・・・かもしれませんが、
決して安易な気持ちで現場に乗り込まないことです。そこには自分の知らない現実的に不都合なものが
沢山あるはずです。そういう人が大抵、思わぬ地域の危険を知らずに痛い目あったりします。
それを地域の環境整備や安全性の不十分だとかなんとか言って自分に責任を全く感じない人とか・・・・。
最初から我が物顔な人には向きませんね。現場で実際に体験をしたいならば、
自分がまず、余所者であることを認識し、その土地に余所者としてお邪魔させていただくぐらいの気持ちで、
遠慮深げに始めていくことが望ましいと思います。

間違った解釈もあるかもしれませんが、ご参考になる部分が少しでもあればいいと思って書いておきます。
疑問に思ったことがあれば・・・ご自身で調べて自分で正しく正しく理解しておいてくださいw
2010-04-18 (Sun) | 日常生活・ひとりごと
ネットという環境は、どうも苦手で、一時期はとてもハマっていたのですが、
最近は、何かネット環境に浸かってると、何かいつでも顔の見えない匿名な自分があって、
何かモノを言うたび(書くたび?)、卑怯だな、陰湿だな・・って思えてきて。
だから、ネットはあくまで補助的、適度に利用するようにしなければ、と
思うようになりました。ネット環境は、長時間置かれると、何か、人間として
イヤな部分が出てきてしまうような気がして、便利だけれど、気をつけないと・・
って時々思います。

子どもへの虐待事件が多いから、厳罰化すべき・・という意見をたまに見ますが、
個人的に思うには、悪い人間を減らそうと罰を厳しくすれば、
万が一、既に止められない状態にある人にとっては(勿論、そんな人が無いことを願いますが)
罰の厳しさのあまり、その気が収まるどころか、
更に巧妙で陰湿で卑怯な手口を考えついてしまいそうな気がします。
(勿論、自分は絶対そんな人間にはなりたくありませんが。)
虐待はそれで減ったとしても、あくまで表面上のことだけであって、
実際には、結局今までより見えないところで、悪質で見つかりにくい、
質の高い犯罪に形を変えて、しかもそれが増えてしまって余計大変なことになるかも?
・・とまですら思ってしまうのです。
子どもへの虐待は親が悪いのだから、
親に対する法的な責任や罰則を更に強めればいい、というのは、
一見一番の解決法のように見えるかもしれませんが、ちょっと角度を変えて考えてみると、
それって、例えば何度叱っても言うことをきかない子だからといって、
自分の態度を省みずに、子どもが悪いのだからと子どもに更に厳しいお仕置きを与える親と、
やってることは変わらないんじゃないかと思うのです。
つまり、法的な力や周囲からの圧力による、親に対する虐待に感じてしまうんですよね。

「親の心理は、実際に妊娠、出産を経験した大人でなければ分からないんですよ」

私が保育の仕事をしていたとき、とある親御さんから頂いた言葉です。
確かに私は当時は独身でしたから、いくらプロ意識を持って保育に携わっていても、
出産の経験も親として子育てをした経験は無いわけです。
だから、子どものことに関しては、いくら勉強したって、親御さんには適わないのです。
しかし、経験豊富なベテランの大先輩の支えやアドバイスを貰いながら私も及ばずながら、
子ども達の為に精一杯向き合っていたつもりでいたので、当時はその言葉に、正直ショックでした。
どんなに頑張っても、親の意見は厳しい・・・。
それならば、いっそのこと、保育者の資格や免許は出産経験のある人限定でいいんじゃないか、と、
親の経験が無い人には保育者は務まらいなんじゃないか、
せいぜい補助か副担任ぐらいでいいじゃないか、とまで思いました。
だけれど、独身で出産経験が無くとも、保育者として担任、あるいは学年主任を受け持つこともあるのです。
親御さんには適わないでしょうが、でも、未就学の幼児を保育する環境においては、新米さんでも、
独身でも、子どもを持つベテラン先生でも、皆、それぞれに、それぞれの良さがある、のも確かです。
保育の仕事は体力第一の重労働。新米さんだから何かと要領は悪くても、誰より若いゆえ、誰よりよく動ける。
独身でそこそこの経験者なら、社会人としても働き盛り、そこそこ動けるし、仕事もテキパキこなせて、
充実感を得ながら、活き活きと仕事が出来る時期。
母親の顔でもあるベテラン先輩なら、若手さんほど動き回ることは難しくなりますが、
若手さんがその分動いてくれるし、若手を指導しながら、保育においてはベテランの力を発揮し、
親御さんにも怖気づくことなく毅然とした態度で的確なアドバイスをできますから、
子どもからも大人からも頼れる存在でいらっしゃいます。
どんな保育者でも、それなりのメリット、デメリットがあります。だからこそ、お互い協力し合って、
保育の場全体を支えているのです。大人たちの連携プレーと優しさが、そこで活動する子ども達の成長を、
良い方向に促している、まさに様々な人同士の絆で囲まれた空間、なのです。

話を戻すと、親子間に限らず、様々な社会問題に対しても、
言うことを聞かないから、問題が収まらないから、更に厳しくする、
だけじゃ本当の解決にならないような気がします。

例えばネットの掲示板も、荒らしが増えたからといって、規制をかける。
規制をかけても、新たな手口による荒らしが出る。更に禁止事項や規制を厳しいものにする。
いたちごっこの末、規制の厳しすぎる掲示板には、
前ほど自由な賑わいや楽しさがなくなってしまい、誰も人が来なくなってしまった。
・・・というようなケースも見かけます。
それとこれとは別問題、のような気もしますが、何か共通するものも個人的にはあるような気がします。

こういった事例を踏まえると、子どもへの虐待問題ってのは、周りが厳しくするだけで解決できるような問題、
とはどうも考えにくくなるのです。勿論甘んじる必要も無いのでしょうが、先ほども書いた様に、

「親の心理は、実際に妊娠、出産を経験した大人でなければ分からない」

という親御さんの言葉からしても、親でない人たちには、実際、親の心理は到底理解しにくいものである、
ということは言えるでしょう。なんせ、保育者である自分ですら、そう言われてしまうのですから。
何年か経験を重ねて、やっと、親でなくとも、親御さんの気持ちというものは、
様々な親御さんやお子さんと接してきたおかげでようやく少しは理解できるようになったつもりですが、
それでもきっと、まだまだなんでしょうね、そう思うと、保育者として少し自信を失くしてしまいそうになりますが、
親御さんやお子さんから励ましてもらえたり、そんな自分でも、信頼されてるな、というのを感じると、
お互い支えあっていく関係の中で、お子さんが良い成長をしていってくれるのを感じると、自信が出てくるんですよねw 

さて、虐待とは異なるか同じものかは分かりませんが、実は、人間に限らず、
自然界でも野生の生き物の育児放棄や、子どもに対するのむごい攻撃って、実際にあるようです。
ここからは人間でなく、動物の話になります。

親になる前は仮になんら問題の無い健全な個体であったとしても、
親になると、子どもを守ろうという本能から、
とても神経過敏になり、些細なことでも神経逆立ててしまい、
また、妊娠、出産直後のホルモンバランスの影響なども重なって、
それが子どもへの攻撃、という悲しい形になってしまうケースが時々あります。
例えば、ウサギが自分が産んだばかりの子ウサギを食べてしまう、
インコが抱卵を放棄してしまう、あるいは卵を食べてしまう、
雛に餌をやらない、卵を温めずオモチャとして転がして遊んでいる、
など、親として奇怪な行動を起こすことがあります。
それらの原因の一つが、飼い主が気になって様子を覗いてしまうことにある、というものです。
インコが抱卵していたり、ヒナが生まれた場合、飼い主は気になって中を覗きたくなるものですが、
絶対に覗いてはいけない、周囲をなるべく静かにして、
そっとしておくのが良い、と、小鳥の病院の先生に言われました。
ウサギはとても耳の良い動物ゆえ、周囲の危険に対しても相当にナーバスになるだろう、とは、
ウサギを飼った経験が無くても何となく想像が付きます。
まして、草食動物ですから、外敵も多いでしょうから、ナーバスなこと尚更ですよね。
たとえ飼い主であろうとも、覗かれた日には、子ウサギを守るどころか、
食べてしまうという行動に出てしまう・・・ほど、神経が高ぶりすぎてしまうのでしょうか。
覗くと親ウサギが子ウサギを食べてしまうので絶対に覗かないこと。というのは、
動物図鑑のウサギの飼い方のところに書かれてありました。

つまり、わが子に対して思わぬ行動を起こしてしまうのは、ただでさえ敏感な状態でありながら、
周りの環境によって、更に神経を逆立てられてしまうがゆえに起こしてしまう行動、であるのではないでしょうか。
もともとは子どもを守る、という親の本能であって、外部からの影響か、心理的な影響か、
何らかの強い緊張が極度に神経を高ぶらせ、思わぬ行動に・・理性を失った行動になってしまった、のかと思うのです。
何言ってるんだ、子ウサギを食べる親ウサギが悪い、卵を抱かずに遊んでいる親鳥が悪いに決まってる、
飼い主が覗くぐらいでわが子を食べてしまったり育児放棄してしまうような親が個体として弱いのだから問題がある。
人間も然り、そう言ってしまえば問題はごく簡単なことのように思いますが、そう言ってしまう人に限って、
いざ親の立場になってみれば、こんなはずでは・・・なんてことも無いとは言えないんじゃないかと思います。
そういった行動を起こしてしまう理由が何であれ、親が悪いというだけの結論付けでは、
同じ現象はなくならないでしょう。
ウサギやインコなどの問題に関しては、逆に考えれば、飼い主が気持ちを抑えて、親鳥や親ウサギの為を思って、
我慢して覗かないでいてやってれば、親が安心を得られて、
子ウサギもインコのヒナもすくすく育っていたかもしれない、ともとれるのです。
つまり、飼い主の行動次第で小さな命が救われた可能性があった、
ということでも・・無いとはいえませんね。

人間と動物は別物だ、と思うかもしれませんが、こうして考えると、人間も動物なんだな、って
思わざるを得ないですね。むしろ、人間が特別で生物の頂点に立つべき存在である、
ということが思い込みか、思い上がりか、驕りにすら感じることがあります。

本当に一人でも多くの子どもを不幸から救いたい、守りたい、と思う心がある人ならば、
ただ只管に親の心理も知らずにその行動だけを問題視し、それを非難ばかりしていても、
いつまでも本当の解決には繋がらないのではないか、ということが見えてくるはずだと思います。
あるいは自分の思い違いによるあまりの厳しい親への待遇により、子どもすら産まれない、
育たない世界になってしまうでしょう。
つまり、親も子も一人もいなくなる、でしょう。それは個体種の絶滅を意味します。
自分はどう、親達に対して行動すべきか、必要であればどう働きかけるべきか、
も考えるべきではないでしょうか。
周りの冷たい環境が、安心した子育てのできる環境になりにくくはなっていないでしょうか。
親御さん達が本当に今、求めているのは子育てに必要なお金では無いのではないでしょうか。
勿論、お金も必要ではあるけれど、それ以上に必要なのは、
安心して子育てが出来る、温かい環境、なのかもしれません。
外敵だらけ、注意することだらけの環境では、
どんな健全な親とて、良い子育てなんてとてもムリ・・・と、
参ってしまうのではないでしょうか。

何の問題も無い大人でも、何らかの原因によって親になった途端、豹変してしまう可能性があるのです。
自分に限ってはそんなことは絶対に無い、絶対の自信を持ってる人ですら、可能性はあるのです。
あるいは、親になったらきっといい人間に変われる・・・と信じて、不安と期待の中で、子どもを産むでしょう。
しかし、母性本能やホルモンバランスの影響、あるいは周囲の環境条件によっては
今までのようにいかない部分が出てくる、あるいは、周囲が今までと違った感じに見えてくるのかもしれない。

「親の心理は、実際に妊娠、出産を経験した大人でなければ分からない」

自然界の生き物でもわが子への攻撃があるからこそ、人間は他の動物とは違うんだ、
って所を見せて欲しいですね。野生の動物は緊張が高ぶると子どもに危害を及ぼすことがあるけど、
人間は違う、赤の他人であれども、子どもは親が育てるものだけれど、
場合によっては周囲も協力し、子どもが不幸な思いをしないように見守ってやるのが我々人間の特徴だ!
っていえるような生き物であるなら、地球上の生物として、その存在価値は特別なものがあるでしょう。
他の動物より秀でた点として誇れるのではないでしょうか。

私も全てを理解できるわけではありませんが、子どもと子育てを頑張る親御さんを取り巻く環境が、
少しでも温かく安心をえられるものであるよう、自分の経験や資格を活かす事が出来たら、
どんなにいいだろう、と思います。いえ、そうしなければならないというならすぐにでも・・・。

何か偉そうに親、とか書いてしまったところもあってすみません。
自分自身、自分の親以外の親御さんを親、と呼ぶのは何か失礼な気がするのです。
他人の親御さんは保護者、あるいは親御さん、ご父兄、と呼ぶのが礼儀のような気がします。
犯罪者が親である場合は親でいいのでしょうか、何か基本がなってないところあります、
自分もまだまだな人間ですね。ちょっとおこがましい私見だったでしょうか。

でも、それなりの努力と経験を重ねてきた上で、私見を述べさせていただいてます。
最後に、自分に、そして、一部でも共感してくださった方がいらっしゃるなら、
その方たちに問いかけたいと思います。

良い子育てに必要な環境、とは、どんな環境、でしょうか。
2010-04-15 (Thu) | 日常生活・ひとりごと
晴れたり雨が降ったり強い風が吹いたりと、
そんな気象の不安定さも春の嵐の形といいますか、
しかしながら、こうもめまぐるしく天気や温度が変化していては、
人間のみならず、やっと冬眠から覚めて出てきた生き物達も大変でしょう;
活動しやすい天候や気温になるまでじっと耐えて待つしかないのでしょうか。
 
でもこういう厳しさを耐えて乗り越えてこそ、
今の環境に適応できる身体になれるのかなぁ・・。
と思うと、これも環境からの、あらゆる生命たちへの試練、かもしれません。
今の環境に、生き残る為に必要な力を試されているような・・・。
待ちわびた春だから、と気を緩めて浮かれてもいられませんね。

環境の変化に敏感でデリケートな生き物は多分、
希少種になってしまうほど数を減らしてしまうだろうけど。

同種の中の個体間や他の種同士での生き残り競争もまた、
自然淘汰という摂理の中での事であるならば、誰もそれを批判しようがない。
生き物と環境は常に螺旋のように絡み合いながらお互いに変化していくものであって。
それは地球の生命の歴史の中で、ずっと変わらない関係であって。
今の環境がそうであるなら、生き物もそれに応じて変化をするだけ。

そして、生き物の活動が、環境に新たな影響を与えて、環境も変化して。
そして、環境の変化によってまた生き物も変化して・・・。

互いに変化を繰り返すだけ。進化もあろう、同時に退化もあろう、
中には不幸にも環境の変化についていけずに滅ぶ種もあろう。
それが良いか悪いかではなくて、良くも悪くもそういう普遍的なもの、
つまり摂理であるだけ。

だから人間も生き物である限り、
人間の活動が全く持って環境にも自分達にも不都合な影響を与えることが
ないなんてことは言えないわけで。環境に対して良い影響ばかりであるといえるならば、
人の世が生き難いなんて、誰も感じるわけが無い。

因果応報、活動や行いの事実に応じて、
後にその報いも善し悪しに必ずやってきて結果として表れる。
それだけのこと。

・・そんな口や言葉にするまでもないようなこと、
何でわざわざこうして書くんだろう、って自分で不思議に思う。
自分が生き物であることを確かめるため?

・・我ながらなんて馬鹿馬鹿しいんでしょうねwww 
火の鳥に笑われてしまいますねw

でも、もともと全ての生命が暮らせる条件であった環境を、
人間が自分達だけの楽園作りの為に改変してしまうことは、周りの生き物達にも、
巡り巡って自分達人間にとっても、必ずしも良い事とはならないとは思います。
だからといって、人間が地球の環境を守る、人間が生き物達を保護管理して救う、
という考えも、一見正しいようで、何かおこがましいような感じもするんですよね。
自然は人間の手中において管理されたり、従えられたりするものじゃないですからね。
本当に守りたい、救いたいのであれば、人間が下手に手を出さないでやることが、
あるいは悪影響を与えないよう、悪影響を与えるような活動を自分で見極めて、
なるべく慎みながら暮らすのが、
最大のエコロジー保全に繋がるのではないかと思うことがあります。
つまりは、直接生き物達を人間の手で助けるのではなくて、
生き物達の暮らす場を、自分達の利欲を抑え、
手をつけずに見守る・・・確保することの大切さ、
=ビオトープ保全の重要性、というところにたどり着くような気がします。
肝心なのは、これが今の人類に出来ようか・・・?というところですね。
おそらく、すぐにはムリでしょうが、いずれイヤでもそうしなければならなくなる状況まで
追い込まれてくるかもしれませんし、そういう現実を目の当たりにする前に気づいて、
そういう考えで自発的に動けるかもしれません。

あくまで個人の推測にすぎませんが・・・。

自分の考えを周りに理解してもらう前に、まず自分自身がどこまで、
環境に配慮して、生き物らしく、
慎んだ生活を心がけることができるか、試すべきはまずそこからでしょう。

環境について、自然について、正しく知りたいと思うのであれば、
お金を払って人間から学ぶよりも、
直接その環境の中で、自然の中で感じて学ぶことが一番です。

環境のことは環境そのものが教えてくれます。
自然のことは自然そのものが教えてくれます。
人間ばかりが、何でも正しく知っていて、
何でも正しく教えてくれるとは限りません。

視聴覚的な情報だけで物事を判断しがちな現代ですが、
環境のことについては、視聴覚だけでは正しく認識、理解できません。
環境を正しく認識するためには、五感全てで現在の環境を直接、
感じ取るしかないでしょう。それで初めて、本質的な環境の姿が、
見えてくるのではないかと思います。

手塚治虫さんのエッセイ本を読み返すたび、改めて考えさせられます。
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