巣立ち、そして自分の力で
2008 / 05 / 30 ( Fri )
アパートに営巣していたツバメのヒナは、全てが2,3日前に無事大空へ巣立ったようです。
5羽のヒナ全て均等にエサをあげて育てるのは大変な事だと思うのですが、
お父さんツバメもお母さんツバメも本当に毎日、雨の日も風の日も暑い日もお世話をし続け、
全てのヒナを育て上げ、逞しく、立派でした^^ ヒナたちもきっと、
そんな逞しい両親の遺伝を受け継いで、これからは自分の力で、
強く逞しく生きていくでしょう。それが一番の親孝行だと思います^^
巣立った直後は、あちこち飛び回っては巣に戻ってきて休んでいたりしてましたが、
昨日には、巣に戻ってくるツバメの姿はなく、巣は完全に空っぽになりました。
毎朝玄関を出るたび、チィチィとエサをせがむヒナの声が聴こえなくなって、
ちょっぴり寂しい気もしますが、近くの上空を、親ツバメらしき、燕尾の長い、
キレのある飛び方をするツバメと、巣立ったばかりの、まだ飛び方のおぼつかない、
燕尾が短くて色もまだヒナっぽい薄さのある子ツバメ達の飛ぶ姿が一緒に見られます。
これからは、親の手助けは全く無く、自分でエサをとっていかなければならないと思うと、
巣立ちはゴールではなく、一人前として生き残るためのスタートにすぎないのですね。
巣立っても、エサが上手に取れなければ、飛ぶために体力を消耗するだけになってしまって、
弱ってしまいエサも取れなくなって結果生き残れなくなってしまいますし、
だからといって親からはもうエサはもらえませんし、
巣立ち直後や、親離れ直後が、野生動物にとって今後生き残れるか否かを決める、
第一にして一番の厳しい試練なのかもしれませんね。
自然の厳しい環境に今後適応できるかの試練であり、それが自然界で生きていくためのルール。
生まれた全てが生き残ることは自然界のバランス上、難しいことかもしれませんが、
全部が生き残って欲しい、とは言えなくとも、一羽でも多くが生き残って欲しい、そんな風に願って見守ることにします^^
私は今となっては親元を離れ、親の援助無しで自分で生活できるようになりましたが、
生物的にみると、私の親離れは、余りに遅すぎたように感じます。
野生の生き物達よりよっぽど弱い生き物だな、自然の中だけではとても生きていけないな、
って思います。人間はやはり、助け合いながら生きていかなければなりませんね。
ベストな目標、ベストな頑張り方
2008 / 05 / 28 ( Wed )
今年の生物分類技能検定3、4級(第一回)が締め切られましたが、
これから受験される方頑張ってください。
去年の今頃といえば、生物分類技能検定の3級の申し込みをして、
6月の漢字検定2級に向けて追い込みをかけていた時期ですねw
私はもう漢検は受けることはないと思いますが、たまには復習しなくちゃですね。
漢検の学習も、他の検定での問題文の漢字の読みとか、小論文を書くときなどに、
その後も大いに役立っています。
これまでの資格検定の学習経験を活かせる、今の自分にとっての一番の目標・・・
改めて考えるとやはりビオトープ管理士資格ですね。
何か自分だけの目標を持つこと、自分で決めた目標に向かって努力を積み重ねることって、
とても大事だな、ってつくづく思います。
自分の事は周りの誰よりも自分が一番理解しているはずだから、
これなら努力できる、達成できる、と思える、
自分に無理や負荷がかからない目標を立てることが、
自分にとって真の価値をもつ、自己に磨きがかかる目標になると思います。
頑張る事はいい事ですが、間違った頑張り方をすると、
逆に自分自身を壊してしまう結果になってしまうと思います。
「頑張る」と、頑張った分だけ、その反動が後で自分自身にくるものだと思います。
後先を考えずにただひたすら頑張りすぎてしまうと、その反動も大きなものになって自分に返って来て、
受け止めきれず、大きな自分へのダメージになってしまうことがあります。
自分の為によかれと思って頑張った事が、
かえって自分にとってマイナスな結果をもたらしてしまうという事が起きてしまいます。
今の自分に無理のかかる目標の高さだったかもしれない、
自分をよく知らない、あるいは知っていながら、周りを意識してつい高い目標にしてしまった、
そんな目標設定の段階での原因ももしかしたらあるのかもしれません。
どのぐらい頑張ったら自分にとって一番丁度いいのか、無理のない頑張りができるかは、
頑張った分だけの反動を後でどこまで受け止められるかという精神力の強さにあると思います。
どれだけの反動なら受け止められるか、自分の持ちこたえられる精神力をちゃんと自分で知らないと、
無理な頑張りを続けた結果、本当の、自分らしい自分を見失ってしまうと思います。
無理のない、小さくても確実な目標、持続的な努力を重ねられる目標が、
自分にとって本当に意味や価値を持つ目標となると信じています。
サンショウ
2008 / 05 / 27 ( Tue )
サンショウの木を買いました。
といってもまだ苗木なので、気をつけて大事に育てていきたいと思います。
私の棲み場(笑)は住宅街の中の小さなアパートなので、
畑や庭といった、小さな土壌空間はありません。アパート周りは全てアスファルトです。
ですが、そんな環境でも、色んな生き物達が個人住宅の庭や畑に暮らしていて、
生き物好きな私としては、
その中の一部の生き物でも、自分のアパートのベランダに呼びたい、という気持ちから、
ペットボトルや実家にあった小さなプランターなどを利用して、
ささやかながらビオトープを意識した空間をアスファルトの上に創出しようという試みをしています。
正確にはビオトープではなく、ハビタット程度の規模の小さな、
一部の生き物にとっての棲み場、なのかもしれません。
ただ園芸やガーデニングとは違った意識やこだわりがあって、
採取した土は地元のもので、過保護な栄養補給は一切無し(笑)
その土から色々な草の芽が出てきても、雑草として摘み取るようなこともしません。
雑草といえども、昔から地元に生育し続ける小さな野生の緑。私にはいとおしいものに映るのです。
単子葉もあれば、双子葉もあって、どんな草に育つのか、かえって楽しみなくらいです。
で、現在、そんな土と野草の芽が出ただけのプランターが2つほどと、
スーパーで買ったニンジンの葉が出てきて伸びたやつが植えられてるプランターがあって、
その横にサンショウの苗木の入った鉢を置きました。まだ小さな鉢に入ったままなので、
少し大きめのプランターか植木鉢に地元の土をもらってきて、植え替えなければと考えています。
できれば、素焼きの植木鉢が理想なんですよね。なぜかというと、もし鉢が割れてしまっても、
それを、割れ方によっては、例えばコオロギやドジョウなどの隠れ場として再使用することが
できるからです。プラスチック製だと軽いし、素材も環境にいいものではないので、
生き物達の為に再使用しにくい部分はあります。
それにしても、健康な土も、水も、栄養成分も、皆買う時代になってしまったのですね。
水や土を買うなんて昔の人たちが聞いたらきっと笑い話にされてしまいそうですね・・。
子ども達を取り巻く環境と子ども達の環境を取り巻く大人達
2008 / 05 / 26 ( Mon )
平成20年度のこども環境管理士資格試験の案内が更新されていました。
受験資格について少し前年度と変わったところがありました。
「保育者及びその関係者」というところが気になります。
前年度は幼稚園教諭・保育士資格を有する者・あるいは資格取得見込み者(学生)だけが
受験対象だったわけですが、「有資格者」「資格取得見込者」ではなく、
「関係者」ということで、資格者に限らずとも、保育関係の分野で働く人や、
子どもを持つ保護者なども対象となる可能性があることも考えられます。・・違うかもしれませんが(ぇ)
(詳しくは7月ごろ分かるみたいです)
実際私は主催者側のアンケートでも書いてみたんですけど、
子どもに自然の大切さや面白さを正しく伝え、健全な成長を促すためには、
教育の場における教育者だけでなく、家庭の場における、
子どもを持つ保護者も対象とすべきではないか、という事です。
教育の場での先生・家庭の場での保護者の方はじめご家族、
また教育の場や家庭をとりまく、地域を支える方々など、
子どもの身近で信頼できる大人達が自然に対する正しい理解と知識があってこそ、
次世代を生きていく子ども達は、将来環境問題を正しく解決できる道を切り開ける人間として
成長していけるのだと思います。
教育者だけが正しい知識を持っておけばいい、というものではないと思います。
勿論その場でしか教わる事の出来ない知識や技術もありますが、それは生きていくために、
将来的に様々な生活の場所において役に立つ事に繋がっているはずですから、
特に環境という分野での教育・知識においては。
環境問題は、専門家や教育者、選ばれた人だけが勉強すればいい事ではないですよね。
家庭の生活の場でも、社会や経済の場でも、どんな年齢においても、
地球上に暮らす全ての人間が考え、行動していかなければならないことですし、
互いに他人任せな態度な人間同士の繋がりによる環境の中では、
子ども達も健全な成長をしていけるとはとても思えません。
子どもが主に生活する場所=家庭と保育・教育の場双方において、
まずそれぞれの場の責任者である大人達が
大切な子どもたちの為に互いに理解・連携・協力し合える関係・・・をしっかり築けてこそ、
子ども達はその中で、安心・信頼感をもって、
新たな成長の芽を伸ばしていく事ができるのだと考えます。
子ども達を取り巻く環境の豊かさは、その環境における設備面の高度さやコスト面よりも、
その環境を様々な方向から管理する大人達の心がけ、社会性、人間性によっても
影響されるものではないか、とも思うのです。
更に、子ども達の環境とそれを取り巻く大人達の環境は、
そんな人間達の暮らす土台となる環境の豊かさに影響されるものとも思います。
と、ここまで書いててふと気付いたのですが、子ども達をとりまく環境にも、
ビオトープ・ネットワークの理論を応用できるような気がします。
その事については、次の記事で詳しく書くことにします。物凄〜く長くなりそうなので(ぇ)
話は変わりますが、ブログのタイトルの部分の画像を変えてみました。
実際に私が数年前の夏の旅行中に撮ったクジャクチョウという蝶の写真です。
実物を見るのは初めてだったので、沢山飛んでいる姿を見て感動しました。
が、チョウチョはずっと飛び回っているので、中々シャッターチャンスを狙うのは難しいです。
何とか撮れたとしてもピンボケばかりで。
そんな中、ようやく一枚、翅を休めている一羽を撮る事ができたのがこれです(笑)
確かに孔雀の翅のような、綺麗な模様ですが、
裏側は表と違って地味で何の模様も無い真っ黒けなんです(笑)
・・多分お見苦しいものではないと思うんですけど、
もしチョウチョ含めて虫が大の苦手だという方がいましたらすみません(汗)
環境学習のための紙
2008 / 05 / 25 ( Sun )
学習をする上で欠かせないノートですが、
古紙配合率の偽装だなんだかんだで、綺麗なノートほど買い難くなりました。
というか、ノートの紙質の綺麗さなんて求めません。
求めればそれだけ、より環境負荷のかかる生産過程になってしまいますから。
もし人間には良くても、環境がダメージを受けるなら、それは本当に人間にとって良いことではないと思います。
地球の中の環境は常に環境と生物との関わりの中で物質が循環することによって成り立っています。
つまり因果応報、人間の活動による環境へのダメージもめぐりめぐって、
最終的に人間へのダメージとなってしまいますからね。
えと、紙の話に戻りますが、できれば、別に紙は見た目の白色度が低くても全然構わないし、
時間と共に多少変色してもいいから、
見た目上、汚い紙質のノート・・本当に古紙配合率の高いノートが欲しいな、と思うこの頃。
商品に表示されている、使う側の見た目には分からない数値的データって基本的に信用しません(笑)
古紙配合率が高いのに、このノートの白い綺麗さは何だ、逆に怪しい、と思えます。
エコの学習の為に、綺麗なノートを使うのは、どうも自分的に納得がいかない部分があります。
よく小学校のプリントとかに使われてた、藁半紙みたいな感じのもので十分なんですよね。
藁半紙でさえ、環境に優しい素材、と100%言えるものではありませんが、
少なくとも、木材パルプによる一般的な白い紙よりは、環境負荷が小さいものではあります。
ただ自分が記録・学習するためであって、人に見せるためのものでないなら、
ノートなんてわら半紙で十分だと思います。ですが、
今のわら半紙も、もしかしたら、昔より加工技術が高まって、昔のわら半紙より環境負荷が
かかるものであるかもしれませんが・・・。これはあくまでスイソクなので、
実際に調べてみない事には分からない事ですが・・。
でも一番環境に優しい紙といえば、
やはり古来からの伝統手法による100%植物性和紙でしょうか。
ただ、和紙で有名な町に行って和紙ノートをじっくりお金をかけて作ってるほど時間も無いですし、
和紙を作るにも、それだけ、自然界の植物を利用しなければならなくなってしまいますしね。
ちなみにヤギやカタツムリが食べる紙、というのは、現在の紙ではなく、植物性和紙のことなので、
いくら紙を食べる生き物、とはいっても、今の紙を食べさせてはいけません。消化不良を起こします。
余談ですが、子供の頃は、広告の裏が白い紙や、わら半紙を利用してお絵描きをしてました。
上手な絵を描くわけじゃないのに、お絵描き帳ではもったいない、という親の意思でしょう(笑)
例えばメモ帳を買うより、広告の裏が白い紙を集めて、メモ帳サイズに切って利用する方が、
コストもかからないし、エコにもなりますよね。
と、紙について色々と考えてみましたが、
一番いいのは、ノートを使わずに学習する、ことでしょうか。
例えば、自分で見にくくならない程度にテキストの余白を利用するとか、
広告の裏が白い紙をノート代わりに使うとか、PCのブログや文章作成ソフトなどをノート代わりに使うとか、
今の時代の技術を上手く利用すれば、環境に負荷をかけない勉強スタイルというのも
きっと可能なはずだとも思います。
まぁ時間的に勉強スタイルだけにあれこれ知恵を絞ってるわけにもいかないんですけどね(笑)
でも可能な限り、最小限の資源消費に努める、という意識は常に持ち続けていたいものです。
参考:「ウィキペディア」より「わら半紙」について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%81%E5%8D%8A%E7%B4%99
ビオトープ論
2008 / 05 / 24 ( Sat )
ビオトープ論のところを一気に読み終えました。
ビオトープ保全・再生といっても、ただ自然の失われた土地に植物や動物を入れればいい、
というものではないんですね。
様々な視点による細かい調査データの分析、解析をもとに、骨組みをしっかり立てて計画、実行へと、
確実に、慎重に、かつ手遅れになってしまわないようにやっていかなければならないのですね。
というか、一つの計画を立てる段階に至るまでの過程・・・細かいけれど欠かせない調査が色々とあるんだな、って思いました。
自然生態系という、複雑に多方面から絡み合った繊細な網の目を再生・保全するわけですからね、
安易な気持ち、適当な気持ちでは自然は正しく機能するはずがありません。
相手は恐れ多くも「自然」ですから。ある程度の人為的関わりは必要ですが、
必要以上に人間が弄くることも良くないのです。だからこそ、人間の持つ高い知恵や欲求、
深い欲望を上手くセルフコントロールしながら、人間の為だけでなく、
全ての生き物達の為にもなるよう、地球生態系の中の一部である人間という生き物として、
自然の理に適った知性・行動をもって接していかなければなりません。
地学的な調査、生物的な調査、そして、その土地の文化や伝統などの社会的な調査、
それらの調査データをまとめた上で、その土地が生態系として健全に機能できる保全・再生・
造成方法を考えていかなければならないようです。プラス、地元住民の方々からの理解や協力も
ビオトープ再生・保全のためには大切な支えとなるようです。
労を要する作業だとしても、十分とはいえない財源だとしても、
自然環境の為、地球生態系の為、めぐり巡って最終的には人間の為になる事だと思うと、
やはりこういった仕事をこなす人たちに憧れますね。地球生態系のレンジャーみたいでw
勿論現実は自分が思ってるよりも厳しい面は沢山あると思います。でも、
自分の好きなこと、小さい頃から培ってきた自分の得意とする事を、
社会の為に活かせる仕事や場所がもしあるとするなら、
それが自分の天職であり、自分が人間として生まれ、果たすべき使命のようなものに感じます。
・・・まぁまだ勉強段階ですけど(笑)、いつまでも勉強ばかりしてても自然は再生できませんからね、
でも先に資格を取って、今後のボランティア活動とか、
これからも機会があれば有資格者として参加していきたいと考えています。
資格が無くてもビオトープ管理者にはなれますが、経験が浅い分、
資格取得をまずは目標にしていきます。
さて、次は環境関連法・・・ある意味、国語力が試される分野かとw
夫婦で子育て
2008 / 05 / 21 ( Wed )
アパートの屋根近くの壁に、去年のツバメさんが作った古巣があるのですが、
今年もツガイが帰ってきて、5羽ほどヒナがいて、夫婦そろって毎日忙しなく子育てしています。
ヒナの鳴き声も身体も日増しに大きく力強くなっていって、順調に成長してるようです^^
ツバメさんは偉いなぁ。夫婦でケンカ一つせず一緒に子育て。雨の日も、暑い日も、風の日も、
どんな天気だろうと不平不満も言わず、いつものように飛び回ってエサを捕まえては、
ヒナに食べさせています。ヒナのフンも嫌がらずにクチバシでくわえてポイって捨てて、
巣の衛生をちゃんと守るための掃除もするし、
ヒナを誰かに預けてたまには羽を伸ばして遊びたいなんて思うこともなく、
ただひたすらに親としての役割をしっかり果たし続けて。
ひきかえ人間の一生はいかに趣味や娯楽に恵まれてることか・・・。
でもその甘い時間の数々が、何だかいい事ばかりでもないような気がしてきます。
何だか、ツバメさんの方が偉いんじゃないかなって。人間も勿論、
変化のめまぐるしい生活環境ながら、それなりに精一杯適応しようとしながら頑張って
生きているとは思うのですが、
沢山の野生の生き物達の暮らす場所を奪って、自分達だけに都合のいい空間を築き上げ、
便利さ豊かさに依存しながら楽しく暮らそうとする人間が、
何だか恥ずかしい生き物のようにすら思えてしまいます。
ツバメさんに倣って、私も毎日、不平不満など言う暇もないほど、一心に頑張らなくちゃ。
宇宙船の中で
2008 / 05 / 20 ( Tue )
コメントや拍手などありがとうございます。拙い文章のブログながら、
きちんと読んでくださって、コメントや拍手をいただけるというのは、
私にとって大きな励みですl^^
コメントにはお返事できるのですが、拍手には中々お礼を書く機会がないので、
改めて今まで拍手ボタンを押してくれた方にここでお礼申し上げます(ぺこり)
今日は大雨。自然界にとっては恵みの雨であり、地球における水の循環の一現象ですね。
都市空間ではうっとおしく困りものに感じてしまうかもしれませんが、
人間に不都合と感じるものであっても、自然現象、あるいは自然を否定することはできません。
自然を否定する事は、人間を否定する事だと、手塚治虫さんはエッセイで書かれています。
また、地球を大きな一つの宇宙船に例えた話も、えと、どこで知った話だかど忘れしちゃったんですけど(笑)、
いい例えだなって思います。
私達は、地球という大きな宇宙船に乗って生きている。
人間も、動物も、植物も、あらゆる物質も。
宇宙船の中の物資は限られているけれど、物資をめぐって争えば宇宙船自体が壊れてしまう。
限られた物資だからこそ、大切に、分け合って、繰り返し再利用しながら、全ての生き物に利用できるよう、
船内で循環させていかなければならないんですよね。人間だけが独り占めしていいものではなくて。
誰もが、自分という個体が生き残るために必死だから、時には競争が起きる事もありますが、
自分だけが生き残ったところで、その種族はいずれ滅びてしまいます。
だからこそ、お互いに分け合う事も大事だと思います。
同じ生物の種同士、あるいは違う種同士、様々な係わりをもって、持ちつ持たれつ、宇宙船を維持するために、
共に生き残っていかなければなりませんね。
大都市・東京の環境意識
2008 / 05 / 16 ( Fri )
興味を持たれた方も多いのでは無いかと思われる記事ですが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080515-00000125-mai-soci
環境意識は高いものの、具体的な行動に踏み出せない。
環境問題は深刻だ。環境を改善しなければならない事は分かってる。でもそんな意識と同時に、
環境問題の改善の為に今の便利で恵まれた生活を手放す・・まではいかなくとも、
制限しなければならなくなる・・・それを意識して恐れているから躊躇してしまうのだと思います。
今の生活水準の高さを維持したままで環境が改善される方法がもしあるならば、
人間にとってはそれがまさに理想的で好都合な事でしょうけれど、
そんな都合の良い方法はおそらく、無理、あるいは不可能なのではないかと思います。
そんな方法があればとっくの昔に見つけ出されて実現できていたでしょう。
もしあったとしても、その場しのぎ、ほんの一時的にしか持たないでしょう。
ですが、それが実現できてない今、より環境汚染が深刻化する今の状態から、
どちらかの為にはどちらかをある程度制限、あるいは
犠牲にしなければならない、それで両方のバランスを取らなければならない、そういう事になります。
今の人間の社会や生活のあり方が、環境に地球規模での負荷をかけてしまっているということに、
私達は気付いているのです。生き物として、気付かずにはいられないのです。
気付いていながら、まだ続けてしまう、
便利さが与えてくれる心地よい快楽を覚え、甘え、すがりついて、手離すことが出来ずに。
こういうような意識って、環境問題だけに限らず、
例えば日本の政治の世界でも、企業でも、個人の日常生活の中でも、
割と普段ありがちな意識なのではないかな、と思います。
頭では分かってる、でも行動に移すとなると頭であれこれ考え込んでしまって、
実際に行動はできてない。頭で行動する姿を想像するだけにとどまり、
それで実際に行動したつもりになってしまったりとか。
例えば「こんなに酷くなる前にもっと早く来ないとダメだ」という、
小さな症状をいつまでもほっといて、かなり進行して生活に支障が出るほどになり、
苦痛に耐え切れなくなって慌てて病院に駆け込んでお医者さんに叱られるケース。
しかし、自然界にはここまで環境悪化を進行させた人間の活動を叱ってくれる
お医者さんはいません。全ては自然体、成り行き任せなのです。
「気付いたときにはもう手遅れだった」では、
「破滅」という結果をもたらすことにしかならないと思います。
意識を持つ事が問題解決への知恵を生み出したり、
行動に繋げていくための第一歩ともいえるかもしれませんが、
魔法使いでも超能力者でもない人類は、
意識を高めるだけでは、強く願うだけでは問題を解決することができません。
頭で考えたことを形にしたり、行動に移したりしてこそ、
考えた事の意味や価値があるものなのかもしれません。
温暖化防止の為に今の便利で豊かな生活を犠牲にしなければならないとなると、
それは困る、それはイヤだ、その気持ちも分かります。
でも、今の便利な豊かな生活ができるためなら、温暖化が進もうが、周りのことなんてどうでもいいのか、
誰かに任せておけばいいのか、自分さえ良ければいい、今さえ良ければいい、
そんな人間を、どう思うでしょうか?
いえ、自分自身がいつしかそんな人間になっていないだろうか?
行動に移しもしないで、口だけ達者になっていないだろうか?
頭では分かってるはずです。今の便利で豊かな暮らしが様々な環境問題を引き起こしている事を。
便利で豊かな暮らしを全く犠牲にせずに環境問題を解決する事は無理だという事を。
今の私達に必要なもの、それは意識を行動に移すための「勇気」だと思います。
環境の為になるなら、未来の世代の為になるのなら、
自分の便利な生活を犠牲にしてでも構わない、そう言えて行動できる大人の方が、
便利な生活にいつまでも甘えてすがって裕福ぶりを周りに見せ付けているような大人よりも立派だと思います。
環境問題に対して、反自然的な方法で立ち向かっても、徒労に終わるだけでしょう。
正しい方法でなければ、改善はできません。
その為には、正しい知識のもとに正しい行動ができなければならないのだと思います。
・・・そして今まで書いたことの全ては、周りに訴えるものではなく、
私自身に最も言い聞かせなければならないことです。
周りをどうこう言う前に、まず自分から動いていかないと、
いつまでもクチだけ・・いえ、グチだけイッチョマエな人間でいたくないですからね。
あ、な〜んだw
2008 / 05 / 15 ( Thu )
前にも書いたけど、ビオトープ管理士試験のセミナー、
どうしても都合がつかず参加できなくて、貴重な講義が聴けない事に加えて
セミナーでしか配布されない環境関連法のテキストが入手できない事も悔やんでましたが、
よく考えたら、通信講座のテキストにしっかり環境関連法の章があって、これでポイントを
抑えていけばいい事に気が付きました。
勿論、主催側の講座やテキストの方がより良く解説してくれるでしょうけれど、
通信講座のテキストでも、それなりにやっていけるでしょう。というか、私にはそれしかありません。
正直、法律関係は苦手なのです。まぁ法律というのはそもそも人が作ったルールであり、
その時代に合わせて臨機応変に部分的に改正されながら、
誰もが平等に平和で安全で幸福に社会で生きていくために出来たものだと思いますが、
簡単に言えば、
こういうことは制限しますよ、こういうことは禁止ですよ、もし守れなかったら罰を与えますよ、
こういうことは特別な理由があればいいですよ、手続きや許可が必要ですよ、・・・
そういったものがほとんどだと思うのですが、私が難しいと感じるのは、
その法律での言葉の言い回し・・と言うんでしょうか、口で説明すれば簡単に理解できる内容でも、
凄く難しい言葉に置き換えて長々と、ぱっと耳にしてもイメージがつかみにくい表現の仕方とでも
いいましょうか^^;
まぁ、法律というものはそこに暮らす人々の集団の上に掲げられる柱のようなものですから、
そういうものでしょうけれど・・・。
難しい言葉が多すぎて、覚えるのが大変で。
好きな人には逆に面白く楽しく覚え甲斐があるのかもしれませんが、苦手な人には、
もう法律の世界をのぞくだけで一気に難語難文の波が押し寄せてくるようで、
すぐドアを閉じてしまいたくなるのです(笑)
・・でも、何か事を成すには、定められた法律に基づいて行わなければいけませんからね、
苦手な分野でも、しっかり向き合って、より一生懸命に努力しなければですね。
それが勉強というものだと思いますし。
今はまだビオトープ論の途中ですが、環境関連法も読みながら併せて進めていこうかと
考えています。進行状況としてはもっとペースを挙げていかないと試験までには
とても間に合いそうにないですが、決して詰め込み型にはならないように、それだけは
気をつけて進めていきます。
・・・法律の文章の難語難文よりも、自分の記事の方が、
無駄に長くて分かりにくい言い回しが多いんじゃないか、というツッコミを自分で入れてみる(汗)
利益還元
2008 / 05 / 14 ( Wed )
前にも何度か同じようなことを書いてきたかもしれませんが、
一応復習のつもりで(ぇ)
「エコ」には、
生態学や生活の場の科学という意味でのエコロジー(ecorogy)と、
経済学や生活の場の管理であるエコノミックス(economics)、
2種類の「エコ」があります。だから、エコについて考えるなら、
いずれか一方だけを考えれば良いというのではなく、
生態系的な面からも、経済的な面からも、両面から捉えて考えていかなければならないものと考えます。
つまり、生態系と経済、両方のバランスが調和されていてこそ、
健全な環境とそこに生活する全ての生き物達の健全な生存が維持されるもの、ともいえるのではないかと思います。
自然を守ることは大切で良いこと、ではありますが、実際問題、
自然保護にむけた活動を経済面から考えたとき、経済界を支える人達にとってはおそらく、
経済面の停滞、あるいは衰退をおそれるかもしれません。
自然保護によって今までのように思うように開発が出来なくなる、経済的な利益が損なわれる、
でもだからといって自然保護をないがしろにするわけにもいかず、
結局自然は保護しようと表向きには良い言葉を投げかけておきながら実際には経済的利益優先で、環境に優しい最新技術での開発とか環境に悪影響を与えない程度の開発などと称しながら
結局経済的利益目的による自然破壊を進めてしまう。そのツケが回ってくるのは次世代以降だろうから、
少なくとも自分が生きてる間は大丈夫、なんて考えなんじゃないでしょうか。
人間は良くも悪くも賢い生き物ですし、私もまた人間ですから、
そんな考えで今の自然環境の地球規模での危機的状態を見てみぬフリをしてを進めようとする
考えの人も少なくないことぐらいは察しがついてしまいます。
最近のニュースの記事で見かけましたが、自然保護団体などの存在を、
今後の更なるグローバル化を進める上で脅威と感じているらしいです、経済で活躍するお偉方にとっては。
別に人間社会を脅かそうとして活動してるわけじゃないはずです、自然保護活動というのは。
逆に環境問題を差し置いて更に自然を破壊しながら経済利益優先でグローバル化を進める
権力者たちのほうが、脅威に感じるぐらいです。
今の経済社会が自然を過剰に利用することで維持されているため、
このままでは自然が経済の為に利用し尽くされてしまい、
自然は失われ、経済も依存すべき自然を失って将来的に共倒れになってしまうことに、
気付いた人たちが必死で呼びかけているのですよ、経済と自然のバランスの大切さを。
自然だけを守ろうとしてるわけじゃない。経済を壊そうとしてるわけじゃない、
自然の恵みで得た経済の利益をこれからは自然に少しずつでも還していくべきではないでしょうか、
人として。
経済面がこれほどまでに発展できたのは、自然の様々な恵み・・様々な自然の資源のおかげですよね。
経済のもたらす豊かさや便利さは、全ては豊かな自然を利用することによって得られたものです。
私達は、沢山の自然の恵みのおかげで、今の生活をしているのです。
自然生態系を利用することで得た今の豊かで便利な経済であるならば、
経済のために自然が沢山利用され、経済は豊かになり、その豊かさに味をしめて、
経済をもっともっと発展させるためにと、欲張った結果、自然は経済の為に過剰に利用されすぎて、
すっかりほころんでしまっている状態なのです。自然を本当に大切なものと思うならば、
今度は自然を沢山利用することで得た経済界での沢山の利益を自然界に還元してやるべきでは
ないかと思うのです。
それが自然に対する恩恵と愛情であり、我々人類はその気持ちを、我々生命の源が誕生した自然に対して、
いえ地球という生態系に対して示すべきではないでしょうか。
それとも、今の経済的利益を手放したくなくて、もっと欲張ろうとするでしょうか。
その気持ちは、残り少ない自然を更に破壊してしまう行動につながり、いつしか自然は利用し尽くされ、
それによって経済も維持や発展に必要な自然を失って、自然と共に崩壊する結果を生み出すのでは
ないでしょうか。
ここで話を最初に戻します。
自然保護の為に経済の利益を自然に還元すること、経済での利益を削ること、
今の豊かさや便利さを自然の保護・再生のために少し犠牲にすること、それらが必要であるなら、
自然保護は経済面にとって不都合で不利益なので良くないことだといえるでしょうか?
経済面にマイナスな影響が出るからといって、自然保護に対して消極的な姿勢でいいでしょうか?
今の利益にすがりついたままでいいでしょうか?
沢山の自然を利用して発展した経済。その自然がピンチであるなら、
今度は経済から自然へと、利益を還元してやらなければならないはずですよね。
それが本当の、自然と経済、両面どちらの環境にとっても優しいエコ活動だと思うのです。
参考書籍
2008 / 05 / 13 ( Tue )
ビオトープ管理士資格試験の参考書籍がサイトにて公開されました。
一応、要チェック本は購入済みなのですが、
非売品である環境関連法の書籍だけは手に入れられません。
なぜかというと、その本はビオトープ管理士セミナーに参加した人にしか配布されないものだからです。
参加したかったのですが、どうしても今回は参加することができないので・・・。
内容は濃くはありませんが、前回の記事で紹介した本にも、簡単に載っているものがあるので、
それでポイントを抑えるしかありません。法律は苦手だな〜;;
でも、技術的な面も法律的な面ももちろん大事ですが、
その技術や法律という大樹を支える上で大事な土壌となるのは、
やはり生態学という自然のしくみの基礎だと思います。
すべてのビオトープ管理技術や環境関連の法律は、これまでの
自然生態系における生物と環境とのかかわりの研究の積み重ねによる、
自然のしくみの正しい理解に基づいて産み出された知恵だと思いますからね。
現在はビオトープ論を進めつつ、生態学のテキストも復習を重ねています。
机に向かって頭で理解するだけでなく、
野外での実践の方が経験としては大きな価値があるものではありますが、
今の私にできることから始める、それが自分にとって大事な事と考え、
まずは基礎を固めるという意味で、関連本をしっかりと読んでいく事にします。
ビオトープ管理事業というのは、実はビオトープ管理士資格が無くてもできるんです。
ただ、有資格者であった方が、周りにビオトープの大切さを理解してもらいたいときに、
より信頼性のある説明ができるかもしれない、周りからも有資格者の言葉だからと、
より理解や協力を得らえるかもしれない、そう思うのです。
自然を本当に愛する人が、たとえ一部でも自然に対して間違った知識を
持っていてはいけませんし、それと知らずにそのことを周りに広めてしまっては大変ですからね。
資格を持つことで、より自然に対する深い知識と愛情を持つ者であることを、
公の場でも証明できる一つの自己アピールにもなりますし、
自分が周りに伝えたい、自然に対しての正しいしくみについて、
資格が無いよりはあったほうが理解や信用が得られるのではないかと思います。
どんなに人工的に切り開かれた空間の中に置かれても、
自然のしくみについての知識は正しく持っていたいものです。
その知識が、心と身体を健全に維持できるような、また、人として正しい生き方をいつでも、
呼び起こしてくれるような気がするのです。
どこか歪んだ人工的空間に狂わされそうになっても、
真実をしっかりと見つめ続けて正しい心と身体で生きていきたいです。
締切間近
2008 / 05 / 11 ( Sun )
生物分類技能検定、4、3級の申込締切がもうすぐですね。
去年の今頃といえば、私は6月の漢検2級に向けて勉強しながら、
生物分類技能検定という検定を初めて知って、
即問題集と受験案内を取り寄せて、これもやってみよう、なんて思っていた時期ですね(笑)
もうあれから1年ですか、早いものです。4級と3級、合格率からして難易度の違いが分かりますが、
過去問題集をやってみたところ、これは多分、私に限っての事かも知れませんが、
3級も4級もそれほどの難易度の差は感じなかったように思います(ぇ) というか、
なぜか3級より4級の方が間違ってばかりで、4級の方が出来が悪いという妙な結果が(笑)
漢検でも2級より3級でのミスが多かったりと、
何だか基礎の地盤が甘いままで高みを目指してるんじゃないか、と
自分の姿勢についてあれこれ疑問を感じ、思い悩むこともありました。
まぁ、そんな私の事はさておき、受験する目的、目標、これまで培ってきた知識や経験、
生活環境は十人十色、
人それぞれですからね。今の自分を一番に理解してるのは自分自身ですから、
様々な角度から自分自身を正直に見つめて、今の自分に必要な知識、
それを得るために必要な目標、環境などを見つけて努力できるような空間作りをまずして欲しいです。
自然界でも、安定した環境内の、
それまで培った栄養豊富な土壌から、新芽は芽生えて伸びていくものですからね。
自己学習も、そんな自然に倣った生き方のもとで、真の自分らしい価値ある芽が少しずつ
出てくるものだと考えます。
ともかく、今年受験される方、是非、頑張ってください。こういう経験を通して、
色んな生物のことをもっと分かってあげられたなら、
今度はきっとその生物達の暮らす環境を守ってあげたい、と思えると思います、
生命の大切さの分かる本当の生物好きさんであれば・・・^^
環境を守る最新知識
2008 / 05 / 05 ( Mon )
「今起こっている様々な環境問題解決の本質は、自然生態系を守り回復させると同時に
持続的に利用していく事にある。」
なぜそう言えるのか。自然と切り離したような都会の中で環境問題を考えるなら、
自然を守る事より、自分の暮らしの中で出来るエコについてまず考えるかもしれない。
でもエコを考えるならば、暮らしの場が都会であろうとどこであろうと、まず自然を守るべき理由、
自然のもつ価値、自然のしくみを正しく理解・認識するところから始めなければいけない、
ということに気付ける1冊だと思います。
こども環境管理士の参考図書としても紹介されています。
個人的には、「緑であれば自然か」 や、「自然の価値と役割について」の、
「精神的財産」、「物質的財産」、「環境的財産」、「文化・文明の源」 としての
自然生態系という部分でとても大切なことに気付かされた、考えさせられた、という思いです。
様々な環境問題についての本が出ているようですが、ブーム的なノリで出されたものではなく、
環境問題の本質について、読みやすく、総合的ながら基礎的なことを学べる1冊だと思います。
リサイクルの重要性
2008 / 05 / 02 ( Fri )
前の記事にコメント下さった方のコメントから、
リサイクルの重要性・必要性について、自分なりに改めてじっくり考えてみました。
生態学テキストで学習した、生態学で自然のしくみの基礎がきちんとわかっていれば、
理に適った健全な知恵が自然体で生まれてくるはずですし。
環境問題・ゴミ問題対策と聞くとまず、リサイクル(再利用)技術が浮かんでくる方も多いと思います。
リサイクルは確かに有効な手段ではありますが、
リサイクルをするにもその過程でエネルギーを消費したり割に合わないコストがかかったり、
特にリサイクル過程でのエネルギー消費には、石油資源の利用に依存するとなれば、
それが温暖化につながる可能性もあって、リサイクルが環境に必ずしも良い技術、
とは評価しきれないのも現状のようです。
でもだからといって、リサイクルをしなければゴミは増え続けてモノに溢れた日本はゴミ大国、
あるいはゴミの埋まった土壌で暮らす国となってしまうでしょう。
(いえ、土壌すらも至る所アスファルトやコンクリートで埋めつくされてしまうかもしれませんが・・。)
リサイクルは、現段階ではコスト面や生産過程でのエネルギー消費面での不安はあるものの、
ゴミ対策として、一刻も早くこの人間社会の中で、
「正常に確実に機能させなければならない廃棄物の分解・再生産過程」であると、
私個人は改めて考えます。
仮に「ゴミ」を「再利用できない、分解できない、廃棄物のままのモノ」とするなら、
健常な自然の中では、「ゴミ」と呼ばれるものが出ません。
健全な自然生態系の中では、それを維持するシステムとして、
光合成をして生命に不可欠な酸素を作り出す生産者(緑色植物)を一次消費者(草食動物)が食べ、
二次消費者以降(肉食動物)がそれぞれ、前の段階の消費者を食べ・・・。
各次消費者の出した排泄物は土壌の微生物(分解者)に有機物に分解されて、
それを栄養分として新しい生産者が生まれ、その生産者を消費者が食べて・・・と繰り返す、
「食物連鎖」という循環系が成り立っています。
これを踏まえ、私達人間という生物だけの、人間が築き上げた物質的な社会の中ではどうでしょうか。
便利な社会や生活の為に生産されるモノの流れに、
もし自然界のような生産者と消費者の繋がりによる循環系システムが成り立っているなら、
私達の社会は自然のしくみに倣った、「健全な社会」であるといえるでしょう。
そして健全な社会であれば、周りの環境も健全であるといえるはずですが・・・?
企業(生産者)が生産したモノを消費者が購入して、それを使用(消費)して、いつかは廃棄物となります。
問題は、その廃棄物が分解者によって分解されて、新たに生産者によって再利用されているか、
というところと考えられるのではないでしょうか。
実際は、廃棄物は分解・再利用の部分があまりに弱く、廃棄物の処理能力が至らぬために、「ゴミ」となって
自然環境に負荷をかけます。ゴミが増えれば増えるほど、環境は汚れていきます。
なんとしても、自然のしくみに倣って、今までの人工生産物の循環系システムに欠けていた、
廃棄物の分解と再生産・再利用という機能=リサイクルを確立させなければならない事に気が付きます。
そうでなければ、廃棄物は只のゴミとなってしまうのです。
自然界では、排泄物もちゃんと価値と役割のある、不可欠な存在ですから、
私達の社会における廃棄物の扱い方についても、それに倣わなければなりません。
自然の理に適った、自然に倣った生き方が出来なければ、
人間は生き物としての正しい生き方を見失い、
ここまで築いた文明社会、他の生物、自然環境、未来もろとも崩れ落ちてしまうでしょう。
無限にあるように思える有限資源を搾取して、生産・消費するだけで、
廃棄物は汚いもので利用価値が無いので燃やして消してしまえばいい、
という考えのもとに、今までの文明社会の歴史があったような気がしてなりません。
だからこそ、リサイクルが注目されるわけですよね。
リサイクル・システムが廃棄物の量に対応できるほど機能できれば、
自然生態系の食物連鎖のように、人間社会の様々なモノもまた、
循環システムの中で繰り返し利用されて、ゴミによる環境汚染や
天然資源の搾取の節約やそれによる自然破壊の防止にも繋がると考えられますよね。
でも現実にはリサイクル技術は進展してはいるものの、コスト面などの諸問題もあってか、
循環系としてきちんと成立できるほど普及してなくて、
再利用されずに廃棄物のまま埋め立てられてしまうゴミの方が未だに多いのが現状に感じます。
廃棄物を分解してくれる分解者、再利用してくれる生産者的な存在が、
私達の社会に必要不可欠ながら、まだ全然足りず、分解されない廃棄物のまま=ゴミは増え続け、
いくら便利で物質的に豊かであっても段々と健全な社会と感じられなくなり、
不安をあおるようにゴミの増加が環境悪化を促進させ、
築き上げた文明社会は生存の危機に関わるほど、
汚れ果てていってしまう・・・といっても過言ではない気がしてしまうのです。
自分達が出したゴミは自分達の中で処理し、
他の生き物が暮らす環境やその生き物達には迷惑をかけない、
という道徳的な意識がありながら、便利な暮らしの心地よい誘惑で、
自分もまた間接的に迷惑をかけ続けている事に、
ゴミを出している人、つまり今の生活をしている人、誰もが改めて気付かなければならないでしょう。
自分が購入したあらゆるモノはどんなに新しいものであっても、高価でも、
長持ちするものであっても、いつかは必ず廃棄物として出さなければならない日がやってきます。
モノを購入するときは、自分は「消費者」であることを改めて自覚したいですね。
モノを手に入れる、という事は、モノを消費するということ。
モノを消費するということは、それをいつか廃棄物として外に出さなければいけないということ。
これ以上、人間という生き物だけの都合で沢山の種類と数の野生の生物の棲み場を奪い、
ゴミ処分場の建設がされないようにするには、私達の生存基盤である自然環境を守るためには、
人間社会での生産・消費・分解・(廃棄物の)再生産の一つの循環系をきちんと成立させなければならないでしょう。
成立しない限り、自然環境の汚染は悪化するだけでしょうし、私達の生存基盤が汚染されれば、
人間には便利だけれど、汚染された環境の中で、不健全な暮らしをしなければならなくなります。
地球という一つの生態系の中での生命の歴史を振り返ると、
生き物は自分達の存在によって変化する環境に常に適応するため進化をしていくものですが、
もし適応しきれないほど環境の汚染が進めば、
進化どころか生命の存続にかかわる危機を迎えることになります。
自分達の行いは、自分達に帰ってくる・・・因果応報ですよね。
長くなりましたが、
最後にこのようなことを考えるきっかけを下さった前の記事にコメント下さったrainさんへ感謝します^^